価値観

我想う支援日誌
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生き方は価値観で決まる

葬儀支援をするようになってとみに感じるのが人はそれぞれの価値観が生き方の違いになってる事「金」が一番の人もいれば「名誉」「社会的地位」が大事な人「家族」が一番、そして「仕事」など様々、どれが良い悪いではありませんけど、僕の中で「金・名誉・地位」それと「物欲」はさほど感じません。

家業倒産前は裕福な生活、倒産後は貧しい生活と両方を経験した教訓に「保証人に成ってはいけない」「商売は真面目にやっても駄目になる事もある」「人は金に集まる生き物らしい」、お爺ちゃんの言葉で「どんな馬鹿でも金があれば旦那、頭が良くても金が無ければあの野郎なんだよ」も納得でした。

金を稼ごうとしましたが特別な能力もなく身体と時間を使い、早朝~朝、朝~昼、昼~夜と3つの仕事をしてた時期は、疲れて家に帰れば酒を飲む必要もなく寝られ、一日中働いているから金を使う事もなく、金は使わなければ少しづつでも増えていくものだと知った。

年収600万円に届いた頃から「金」への執着心に疑問が生じ始め、年収1,000万円に到達、ある程度の物ならいつでも買えるようになると欲しい物が無くなり、見栄を張る必要が無くなると3万円のポロシャツが980円でも良いと思う自分がいたり、好きな食べ物は「玉子掛けご飯」「水掛け漬物でご飯」「「味噌汁掛けたご飯」など粗食である事にも気付き、自分はどうも「金」ではないらしいと思い始める。

祖父母の教え

5才まで後継ぎとして我が家流の帝王学を祖父母からの教えられた3教訓は『自分より弱い人には慈悲の心を持って優しくあれ』『商売で大事なのは金でなく信用と思い遣り』そして、70才目前の今もって出来ない『実るほど頭を垂れる稲穂かな』これが僕の潜在意識に刷り込まれた原点なのでしょう。

祖父母の教訓が活きてる

35年間の経営者人生の中で唯一誇れるとすれば「支払いだけは綺麗にしてきた」事でしょうか、支払いが大変な時は何度も経験してますけど「待ってくれ」発言は1度もした事がありません。10年、20年と積み上げた信用でも1度で全て崩れ去るものだと聞かされてきたからでしょう。

他はどうであれ、その点だけは信用が高いようで今の家主企業さんも普通では考えられないくらい親切な対応をしてくれたり、施行数を減らす作業に入ってから1度だけ家賃交渉した時も、あっさり「良いですよ」と対応してくれ、屋根の塗装、駐車場のアスファルト舗装、雑草処理、枯葉処理も全て無料でしてくれてます。

その意味では家主企業さんを始めとして、お手伝いしてくれる住職さん達、関わってくれてる業者さん達が便宜を図ってくれたり、協力してくれるから普通に考えれば不可能な料金や内容の支援が可能になり、我々の行う支援活動を素直に喜んでくれる会員さん達に持ち上げられてるのも事実。

且つてリクルートで総務の仕事をしてた千明だから、様々なデータ管理は得意だし、経理、法律なども教えれば全て身に付けてくれてるので、今では売上、支払いなどの経理面は一切関知せず、たまに「やっていけるか?」と確認する程度で過ごせているので気楽です。

価値観は考えるものでなく知るもの

16年前、葬儀屋は胡散臭いイメージ(現在も変わってません)しかなく、暴利の葬儀屋、高額な布施の寺は祖父母の教えである慈悲の心(優しい温かい心を持って生きろ)は、仏教の言葉なのに寺の実情は真逆で戯言を霊感商法と脅しで正当化させようとする姿勢に怒り心頭でした。

人は誰でも必ず終幕を迎え、終幕前は高額な医療費も掛かった後での高額な葬式は、年金生活や余裕の無い家族にとって大変なのは誰にでも分かる事、この怒りから始まった葬儀支援に猪突猛進した数年後、自身の価値観に気づいてからは生き甲斐のある日々を過ごせてます。

当支援センターの実態を知った人達から人助けと言われますが、突き詰めると『自己満足』だから儲からなくても、365日無休24時間対応、夜中に起こされ、酒も飲めず、旅行にも行けない16年間でも続けられてる訳ですから、価値観の違う他人からすれば、あり得ないと言われるのも当然です。

これって『趣味』に近いんじゃないかな、花や野菜を育てるのが好きな人、山登り、マラソン、絵画、写真、中には被災地に自費で行って支援活動するが生き甲斐の人達だっておられる訳ですが、結果は人助けに間違いありませんけど突き詰めれば自己満足です。

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