「運」って何だろう

我想う支援日誌
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運の良し悪しの話題は葬儀支援の事前相談で時々耳にしますが、運が良いと感じてる人、悪いと感じてる人には考え方に違いがあるのは歴然、自分は不幸な人生を生きて来たと主張する人と話すのは苦痛で、自分がその人の立場ならばと考えても個人的には共感できません。

自分は苦労したと主張する人は、自分はそう思ってるのだから間違いでは無いのでしょうが『苦労』は自分で評価するものでしょうか? 自分で分かるものでしょうか?「今思えばこの頃は苦労してたよ」みたいな過去形なら理解も納得もできますが、自分の生き様を苦労と称する感覚が分かりません。

天涯孤独でも、戦時下でも、金が無くても、病弱でも、その人生しか知らなければ苦労とは感じないからです。高校生の頃、母親と姉妹とは別居でしたから小遣いは自分で稼ぐしかなく、老いた祖父母以外に頼れる人もなく、大人になってから叔母達に逢うと「お前は苦労したからね」と言われました。

けど僕自身の中に苦労した感覚はなく当り前の事をしてきたに過ぎません。頼れる人がない、金がない生活は坊ちゃん育ちの甘ったれを矯正し、自立心を養ってくれたから今の僕がいるのです。

多感期の15才での家業倒産経験は、その後の2024年時点で55年の人生を生きる上で、金では買えず、誰でもが経験できない貴重な体験をするには最適な時期だった気がするのです。

人生は真面目に頑張れば良く成るとは限らない、経営者とは常に倒産と背中合わせの人生、大切にすべきは家族が第一、大金で無くても稼げる心身の健康があれば何とかなる、無くなって初めて感じた「無償の愛」、そして幸せの原点にあるのは金、名誉、地位等でなく、笑顔で暮らせる平凡な日々でした。

それを教えてくれたのは過去の様々な経験、蒸発してた父親の終幕期の生き様、葬儀屋でなく残る家族の生活が守れる葬儀支援17年の日々、祖父母と姉の死で感じた後悔の念は消えませんが、支援する家族が同じ後悔をする必要はないとアドバイスしたり、自分や千明の人生にも活かせてます。

ポジティブな人・ネガティブな人

運の良し悪しで言うと、ポジティブ思考の人のほうがネガティブ思考の人より「運」が良い傾向にある気がします。会員さんの中には家業倒産で父親蒸発と僕と同じような経験をした方もおられますが、何十年と経った今も父親の事を許せないと言ってました。

人生が良く無いのは全て父親の責任と思ってるようでしたが、もし納得できない人生を生きてるのだとしたら、父親のせいでなく自分の問題、自分の人生を父親のせいにするのは理解できません。

性格の違いか、父親の違いか分かりませんが、倒産前日夜に蒸発した父親は「弱い人間」だとは思うけど「怨んだ事はありません」ただ妹の口から父親否定の言葉を聞いた事があるので、兄妹でも違うようですから、良し悪しは別として個人差があるようです。

我が人生に於いて本当に参考になるのは教師より反面教師、その意味で父親は経営者として最高の反面教師、これは父親で無ければ見せられない事ですから、我が人生に於いては必要悪であり、僕の人生を実りあるものにしてくれる為の布石だったのかもしれないとさえ思います。

何処を見るかの違いです

家業倒産時、家族を捨て倒産から現実逃避した点に焦点を当てれば「ろくでなし」だけど、経営者の抱える問題点を体験として教えてくれた人、経営者に必要なのは攻めの姿勢だけでなく、全滅させない負け方をする事、そして『自由の裏に責任がある事だけは覚えておきなさい』

これは蒸発した父親が僕に伝えた実に説得力の無い言葉、だけど無責任とはこういう事と教えてくれてる言葉ですから、経営者人生を35年続けて来られたのは父親のお蔭かもしれません。

運も実力のうち

長い人生の中で石につまづく事もあれば、穴に落ちる事、晴れた日もあれば雨や雪の日、嵐の日だってあるけど、だから多少の風なら倒れない稲を改良したり、台風の時期より早く収穫できる果物に改良するなど、自然に対応できる実力を付ける絶好の機会とポジティプ思考の人に運は味方をしてくれるようです。

そうそうひとつだけ僕自身の経験談で言わせて貰うと、自分から動かない限り「運」それも「良運」が来ることは決してなく、実際は最高の「運」だとしても最初は最悪に見える「運」もありますから、もしかしたら「運」とは「良運」「悪運」両方の可能性を持った状態で自分の前に現れる!?

その後の自分の対応の仕方次第で「良運」が芽を出す人もいれば「悪運」が芽を出す人がいるのかもしれません。あなたは、どちらの「運」芽生えさせる人ですか?

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