「布施」の疑問を調べてみた

我想う支援日誌
この記事は約3分で読めます。

違和感と疑問、ずっと気になってる事のひとつに『布施ふせ』があります。辞書で調べると『僧に読経などの謝礼として渡す金銭や品物』との記載もあり、それが広く世間で認識してる布施だろうと思う。

しかし仏陀(釈迦)が一般市民に対し僧侶に施しをするようにとの教えをするだろうか?とずっと疑問とも不信とも思ってきました。

そこで調べみると布施ふせは、サンスクリット語で「ダーナ」と呼び「与える」の意を持ち六波羅道ろくはらみ布施ふせ」「持戒じかい」「忍辱にんにく」「精進しょうじん」「禅定ぜんじょう」「智慧ちえ」の最初が布施のようで、布施には次の七つの教えがあるようです。

  1. 眼 施がんせ:優しい眼差しで人に接する
  2. 和顔施わがんせ:穏やかな笑顔で人に接する
  3. 言辞施ごんじせ:優しい思い遣りのある言葉遣い
  4. 身 施しんせ:身体を使い人の嫌がる事も行う
  5. 心 施しんせ:心の底から人を思いやる
  6. 床座施しょうざせ:安らげる場所を与え譲ること
  7. 房舍施ぼうじゃせ:困ってる人に休める場所の提供

また七つの布施を行う上で大切なことは『相手の目線で良いことをする』であり『見返りを求めず』とのこと、この言葉を素直に受け取れば仏陀の教えとして納得も共感もできます

僧侶に謝礼を渡すなど何処にも無く、仏陀は弟子達に「世の中の人達の為になることを進んで行い決して見返りを求めるな」と教えてるのでは!?と思える。

寺の建前になってる言葉「お布施はお気持ちですから」が本来の教え「布施」とは施しほどこですから各家庭の事情で無理の無い「額」でいいはずです。

経営が成り立たないのなら、経費の中身を見直し節約それでも駄目なら「寺」以外で収入を得て存続させる。大小問わずどんな事業でも当然の事です。

とはいえ寺が布施をメニュー化して請求するのは宗教者としての倫理は別として、商売の観点からすれば全く問題はありませんが宗教者と名乗るべきではない。

また寺の経営手法に疑問があるなら『離檀』すれば良いだけの事、入檀する際の規約で「離檀料」の設定が無ければ払う必要はなく裁判しても勝てます。

昨今の檀家離れは各住職の生き様が反映してるに過ぎないのだろう。仏教の教えは「なるほど」と思うことも多いのに建前で唱えるだけでは意味がない。

改めて調べて少し驚いたのは『相手の目線で良いことをする』そして『見返りを求めない』初めて知った教えでしたが葬儀支援センターの立ち位置は近い気がする。

家族目線の葬式を企画施行する相手の目線で良いことをする
葬儀支援最大の目的は余裕の無い家庭であっても「残る家族の生活が守れる葬式の立案と施行」本音でじっくり事前相談を行い当方、家族が互いの事情、思考を確認し「入会後は死後費用の心配をする事なく生きられる」ことです

赤字覚悟の超低料金でも高品見返りを求めない質な葬式』
葬式プラン半分は人件費考慮すれば赤字、家族葬に至っては豪華な祭壇式場、読経、居士大姉戒名まで付いて15万円+税『日本一安くて豪華で追加不要の家族葬』を創り出したのは葬儀社の直葬料金で家族葬が出来れば寂しい思いをせず笑顔になれる会員もいる。儲けうんぬんは語る必要すらないでしょう

もっとも『家族葬15万円+税(一般葬儀社なら150万円~200万円)の実現は低謝礼でも快く引き受けてくれてる住職達がいてくれたからで、今も心ある住職が少数ですが存在してる事だけは記しておきたい。

僧侶として宗教者としての道を歩む判断は他人に非ずあら自身の決定ですから、人として、宗教者として、僧侶として誇れる人格と生き様を見せ続けて欲しいと思う。

コメント