人生は選択の連続、優先順位を間違えるな

日々の「我想う」
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人生ってさ、朝起きた瞬間から眠りにつくまで『どの服を着るか』『どの道を通るか』『どの車両に乗るか』『エレベーターか階段か』さらに『昼飯は何を食うか』『仕事が終わったらどうするか』と全て『選択の連続』でしょ。何気なく判断することに慣れてるから、結構大事な選択も何気なくしてしまう傾向が強くなる――、その中のいくつかは単なる選択でなく『人生を左右する選択』だったりするわけです。

後から考えれば人生を左右するほど大きな選択なのに、その時はそれほどの事だと思えないことからチャンスを見逃しちゃう人、掴めない人も沢山いる訳です。ただ『if』の人生は分からないから、結果が正しいか、正しくないかは不明だけど、後悔の無い人生選択なら間違ってないと判断できる。

自分の人生を振り返ると、親の判断で選択した人生は別として、自分で判断した人生は後悔もあれば正解だったと思えることもあるけど、若い時より、年を重ねてからの判断は正解が多いと思えるし、『選択』は後から思うとで、その時はそれほど大した選択では無いことのほうが多い気がする。

例えば、葬儀支援の道を歩くきっかけは、47年前に行き別れた父親逝去の一報が八王子裁判所から届き、遺言書の開封に立ち会うか、委任状を送付するよう届いた手紙なんだけど、残念ながら日時は仕事の都合で行けないから、同じ封書が届いた妹に委任する形で行けませんでした。ところが父親の最後を看取ってくれた女性がいて、父親の年齢からして70代の老女が一人残ったと思った訳です。

逢ったことも無い他人だから放っておいても問題ないし、妹は思ってたより良い暮らしをしてたって感じたら腹が立ったようですが、父親の最後を看取ってくれた女性である事は間違いないわけです。だから、とにかく一度逢って僕にできることがあったら――、と思って電話をし、転居先の鎌倉市に行った。これが人生を大きく変える『選択』となったのは間違いない。

また葬儀支援と謳ってはいたけど、自分には別会社からの収入があるわけで、相談者と同じ目線には立ってない自分が偽善でしかないと思い、それなりに収入のある法人を閉鎖し、今まで頑張ってきてくれた社員に無料で引き渡した事で、僕の収入は無くなり、相談者と同じ目線に立ったから、本物の葬儀支援の道が見えたんだと思う。

立ち上がるきっかけの13年前は『老女の心配を少ししただけの判断』、経営してた法人の閉鎖は、『相談家族と目線を合わせる為の判断』と『25年も頑張ってくれた社員に報いる為の判断』でした。

これが全てだとは思わないし、異論がある人もいるでしょうが、僕の場合でいうと自分のことよりも相手というか、他社のことを優先した判断をした時は好循環してるような気がするんです。25年間経営してきた会社を無償で渡したと言うと、ほぼ100%の人が驚くし「なんで無償なの!?」と言われますが、その時は売り渡すなど考えもしませんでしたし、父親の最後を看取ってくれた老女に逢うのも、極々自然で後先のことは全く考えもしませんでした。

その女性と逢って一晩中話しができた事で『葬式とはなんぞや』と考えるきっかけとなり、現在執り行われている葬式が誰の為の葬式なんだ!? 利を得ているのは葬儀社と宗教者で、肝心の家族達は変な葬式の為に生活さえ脅かされる現実をいくつも見て、絶対に間違ってると思ったからの葬儀支援だし、頑張ってくれた社員への恩返しもあって、自分の収入を絶ち相談者と同じ目線に立てたから、超低料金は維持しても尚、食えるためには何をすれば良いのか、どんな体制なら良いのか、以前のような会社感覚での借金だけは絶対にしてはならんなど、肝に命ずることも出来たから、今のあんしんサポートに成れたんだと思うし、結果論で言えば、あんしん館設置から10年間食ってきたわけだし、堂々と胸を張って、生き甲斐を持って生きられてるから、人からどう見えるか分からないけど、自分の中で素晴らしい老年期を過ごしていると思ってます

さて、本日の結論ですが、僕の場合は『自分より他人を優先した決定』が良い結果に繋がっていると思うわけで、この判断は特別な場合だけでなく、常日頃からの判断である必要があります。結果的には人生を左右する判断になったとしても、その判断の時点では、どうって事のない判断である事と、違う判断をしても、その後の生活には何の影響もないことが多いって事、だから後になって、あの時に違う判断をしていれば――、なんて思うことさえないでしょう。この辺りをよーく考えてみると良い気がします。

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