連日続く入会相談には無信仰者もいれば、厚い信仰を持ってる方もいて、相談を受ける自分はブログも含め誰の前でも公言してる通り「無信仰者」、いつから無信仰者であると公言するようになったのか16年間の過去を振り返ってみました。
父親逝去の一報が八王子裁判所から届いた2007年9月、看取ってくれた女性と逢った10月の時点では葬式は祭壇の前で僧侶が読経するものと思っており無信仰者の意識すらありませんでした。
その後、葬式について調べ何軒もの寺で話しを聞かせて貰い「布施はお気持ちですから」の言葉も含め『宗教者は凡人の俺と違って人間ができるんだなぁ』と感心したり尊敬さえした記憶がありますから日本人に多い、なんちゃって信仰者って感じでしょう。
ところが「布施は気持ちです」と全ての寺が口を揃えたのに葬式経験者の大半から「布施が高過ぎる」と聞かされ『人は自分が決めた金額を高いとは言わない』訳で経験者が僕に嘘を言う必要はありませんから『全て建前の嘘!?』と分った時が無信仰者スタートラインのような気がします。
その後、少なくとも数百件の仏教葬で各菩提寺住職と逢った際の言動や姿勢、檀家のいない場所での顔、金銭感覚のずれた世間知らずを見て「人」として信用できないと感じたのがきっかけだと思う。
正直、資格や階級や修行はどうでも良く、素人役者が行う僧侶、神父、牧師、神主でも家族の心が穏やかになれるなら構わないと思うし、謝礼が3万円、5万円程度なら『少し高めな気休め料』と思える範囲とブログ発言も含め執筆もせず何も言う事は無かったでしょう。
しかし配偶者の死が最も多い年代は年金生活者も多く、 国民年金で生活する老夫婦世帯で30万円、50万円を貯めるのがどれほど大変かは容易に察せますからそうはいきません。そんな思い遣りさえ持てず当り前のように高額な布施を請求する『人間性』と『戯言』を盾にする姿勢に腹が立ちました。
まず僧侶に引導を渡す法力や、あの世に導く法力もありません。更に言えば仏教の開祖である釈迦のインド仏教に戒名は無いのに釈迦の弟子になる戒名など納得できず戒名が30万円~など論外です。
戒名料はそれほど頂きませんと言う住職もいるでしょうけど、読経、戒名合わせての金額だから一緒、信士と居士と院号で布施額が違うのは事実ですから単なる屁理屈です。
住職達は自分に法力でもあるかの如く偉そうに語るのを見てるうちに、何となくあった仏教信仰が自分の中から消え、僕以上に凡人としか思えない住職達の言動が更に仏教心から引き離したんだと思う。
ネットを見ると強欲、傲慢な僧侶もいるがそれは極々少数――、のような書き方を多く見掛けますが、2,000施行担当してきた僕に言わせると「僕が出逢った9割はえせ坊主で信用ならない」と思ってます。
だから葬儀支援センターの目的と使命とは真逆に位置する「菩提寺の行う葬式は受けない」と公言するに至ったわけで、その想いは16年の時を経て尚、強くはなっても薄らぐ事はありません。
ただ仏教の教えがどうこうではありません。仏教、神道、キリスト教、他の宗教も含めどんな宗教でも『なるほどぉ』と思う教えは多く、無信仰者の自分でも参考になる教えは多いですから信仰を否定する気は毛頭ありません。全ては信仰の教えを伝える立場にある人達の「人間性」の問題です。
本来『信仰とは生きる為の指針』ですから、その前提で見るとあえて信仰名は記しませんが、世間からは嫌われる事の多い宗教のひとつ、信仰主体の生活だからか決して裕福では無い人達も多いですが、大半が穏やかな人達だなぁと思う信仰があり僕の知る限り高額な寄付も無いと思う。
高度経済成長で世界1位にもなり贅沢を経験した日本の中で――、質素な生活でも心穏やかな日々を過ごせるとしたら信仰の在り方としては間違ってないと思うのです。
だから「俺は無信仰者だけど、あんしんサポートが存在するうちは、せめて死後費用の心配だけはせず生きられるよう力を貸すよ」と伝え、今では5,000名超の会員の中に数百名の信者がいると思う。
仏教は線香、神道は玉串、カトリックは献花、どれが良い悪いでなく家族がしたい事をすれば良く、他者を邪教だと罵れば自分達も他者から同様に言われるのは必然、葬儀支援を行う立場から言わせると、我々の事業内容が支援となり、金銭面で余裕が無かったら遠慮せずおいで――、の姿勢を貫くだけ。
葬儀支援者(本来葬儀社も同様)は無信仰、中立の立場で全ての信仰に対し色メガネで見るべきではないと思ってます。ついでに言うと高額な寄付の信仰が騒がれてますけど信者が悪いわけでなく素直なだけじゃねぇかなぁって気がします。
悪いのは素直な性格の人達を洗脳して私腹を肥やす教祖や教団幹部、最もどんな宗教でも信者は洗脳されてるわけで洗脳されてる人が洗脳されてないと言うのは、酔っ払いが酔ってないと言うのと一緒だと思ってますが、それが世間に悪さをしないのであれば何を信仰しても自由です。
.こうして考えてみると、僕の無信仰者論は仏教の住職から始まり、様々な宗教の人達との出逢いから、自分はいずれの信仰にもそぐう事のない無信仰者であると自覚したようですから、信者のように素直じゃない自我の強い奴と言えるのかもしれません。
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