葬儀屋でなく葬儀支援という仕事柄もあるでしょうが、半分人生相談のような場面は毎度のことで慣れっこですけど、何度聞いても実感として理解できないのが『自分は苦労した』の表現です。
苦労とは仕事、生活、心配事など肉体や精神を使い疲れたり、苦しい思いをしたりすること
言葉の意味は上記のように調べれば分かりますけど、自分の人生は1つしか経験してませんから、周囲から見れば苦労してると思われる人生だとしても、当人にとっては普通か当り前の人生としか思えないはずで苦労と称する根拠が分りません。
僕の人生を例にすると15才で家業倒産、父親蒸発、残った家族は「母姉妹」と「祖父母と僕」に別れて生活、高校で必要な費用は学校に内緒でキャバレーでバイト、叔母達からは「お前は苦労したから」と言われた事もありますが、僕自身苦労した感覚は全くありません。
家業倒産、父親蒸発、家族離散となれば必要な資金は自分で稼ぐしかないだけの事で、それは苦労でなく当り前の事、それが出来る心身の健康は備わっているのですから苦労とは思わんでしょ。
「なぜ葬儀支援を始めたのですか?」最も多く聞かれる質問のひとつ、きっかけは蒸発した父親逝去の一報が八王子家裁から届いた事ですから、どうしても家業倒産を話すことになります。
すると社交辞令もあり「苦労されたんですね」と言われる。その度に「苦労はしてませんね」と言いつつ改めて『苦労って何だ?』と思う自分がいるが考えてみれば『葬式とはなんぞや』と思ったのが葬儀支援を始める最終思考なのだから疑問はスルーしないタイプなのでしょう。
ボーッとした顔なのか「苦労した事ないでしょ?」と言われる事も多く「はい」と答えると「だよねぇ、顔に書いてあるもん」と言われ「坊ちゃん育ちでしょ!?」とも言われる。
倒産までは確かに坊ちゃん育ちだから「はい」と答えると「だよねぇ、苦労なんてした事ないって顔だもん」毎回の事なので腹の中で『はぃはぃ』と思いながら苦笑することも多い。
不思議な事に自分で苦労したと言う人達は偏見かもしれないが『幸薄そうな顔』をしてる人が多いけど、のほほんとした顔に産んでくれた両親には感謝です。
良く分からないのは「苦労した」と主張すると何か良いことがあるのでしょうか?
一番近くにいる千明の幼少期の話しを聞くと『貧しい・貧乏』の言葉がスッポリ当てはまる生活としか思えませんが当の本人はそれが普通だから、金持ちの子が羨ましいと思った事はあるそうですが自分が極貧生活だと思ったことはないようです。
その意味では僕の周囲に苦労話しをする人、過去の栄光ばかり口にする人「たら」「れば」話しをする人はおらず、どんな状況でも前向きに向上心を持ってる人達ばかりのような気がします。
事前相談でも、死後相談でも、そんな人に合せて長時間話すことはなく、また故人について長々と話すこともなく、これから日々笑顔で過ごす為のアイデア(考え方)を伝える事が多いけど、苦労話、苦痛話、タラレバ話、そして執着は、自分が暗くなるだけじゃないだろうか。
これは多分でしかありませんけど、自分の周囲にいる人達を見れば『類は友を呼ぶ』と言いますから、今の自分の姿が分るかもしれません。
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