》本物の供養は自分しかできない
供養は仏教用語ですが日本人にとっては『死者への追悼であり弔いの心』という認識だろうと思う。
「供養」をネットで調べると「死者の霊に供え物をして、死者の冥福を祈ること」と出てくるが「供え物して」の表現は疑問がある。
「死者の霊に供え物をしたり死者の冥福を祈ること」のほうが適した言葉だろう。
「供え物をして」の場合、この言葉だけを取上げて商売をする業者がいるのは現行の葬式をすれば誰でも分ることだろう。
故人に対する供養は全て気持ちや心の問題であり実際に物を供えることではない。
供養とはなんぞや
『故人を忘れない事、時々思い出す事』
これが供養の基本で極論を言えば「供養」は、これ以上でも、これ以下でもないだろう。
但し祖父母、両親、愛する人のような立場の人が故人だった場合に限り存在する供養がある。
『愛されてた側の人が毎日を元気な笑顔で過ごす姿を見せ続ける事』
多分これ以上の供養は存在しないだろう何故なら故人は「最大の安心」が得られるからです。
例えば、あなたが故人だとして、花や供え物を沢山供えてくれた人が周囲への建前で腹の中は「面倒くさい」と思ってたらどうだろう。
或いは、遠方に住んでる子供や孫達は来てくれないけど、時々自分の事を思い出して愚痴や相談や報告をしてくれたらどうだろう。
あなたにとって、どちらが供養になりますか?
『供養にお金は掛かりませんが心が無いと出来ません』
供養の代行はできないと思う理由、供養とは何処に居ても、いつでも自分の心で出来る事だからです。