友達は要らない

我想う支援日誌
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友人は一生の宝のように言われるが、、

『家族』と『職場の仲間』なら理解も納得もする。近所や他人への外面より家族への内面に気を遣うべきとさえ思う。仕事でも周囲との協調や気遣いは必須、自分の仕事より部下への配慮を優先したり、本気で会社の事を考えてるなら経営者との討論も辞さない性格です。

それで嫌われるなら将来性は無いと見限れば良いだけの事、本気で仕事をするとは上司の言いなりになる事でなく、日々選択し間違えたら朝令暮改であろうと迅速に改める姿勢を備え、どんなに素晴らしい才能を持った経営者であろうと一人では達成できませんから、仲間と考えられる人間で無ければ着いてはいけません。

そんな仕事人間でも許し支えてくれる家族の存在はとても大事だから『家族』『職場の仲間』なんです。最も職場の仲間を友と呼ぶなら話しは別、されど多くは職場を離れた人達を友人と称してるようですから、個人的な人生観で極端に言えば「一般で言う友人は要らない」と思ってる。

親友はひとり

僕にも親友と呼べる人がひとりだけいて幼馴染みではないけど、中学1年生から机を並べた仲、異性だから周囲からは彼女?と思われたようだけど、異性として見ておらず、20才の頃は家に行くと「まだ寝てるから起こしてくれよ」父親に言われたから両親も異性として見て無かった!?

クズな彼氏との別れ話でこじれたと間に入ったり、何人か彼氏の相談にも何度も乗ったりと、家族というか兄妹というか、幼馴染というか、今は数年に1度しか逢えませんけど、何時間、それこそ徹夜でも話し続けられるから、笑いのツボ、価値観、性格、あらゆる面が共通なのでしょう。

同窓会、同級生との時間は疲れる

30数年振りの同窓会に数回参加したけど結論から言うと疲れる。同級生400名弱のマンモス校で参加者は80名くらいでしょうか、驚いたのは分らない人が多数いること、若干目立つ存在だったようで皆さん声を掛けてくれるのですが初見で分からない人は最後まで分かりませんでした。

同窓会に来る人の多くは当時真面目だった人達のようで、一緒に遊んでた人は少なかったし、当時の生徒会役員が発起人や中心なのかもしれません。

その後は十名ほどで飲み会にも参加したけど「疲れる」が本音、互いに違う人生を生き、家庭を持ち、異なる価値観と人生観ですから話しが合うはずもなく参加しなくなりました。

15才の家業倒産で地元から転居したり、22才から前橋に転居した事もあって地元の人達と逢わなくなったことも影響してるかもしれません。ずっと生まれ育った地域で生活してたら違ったかもですね。

家族・仕事仲間は友人であり親友

家族と言えど個々の性格や厳密に言えば価値観も違いますから、自分以外は全て他人とも言えるわけで、嫁さんは家政婦でも無ければ、自分の所有物でもなく子供達も同様ですから互いを尊重する姿勢と言動は必須、この点は職場の仲間も同様なので家族・職場の仲間が最高の友人ではないでしょうか!?

僕の狭い人生路で言うと睡眠時間を除く大半は職場と家庭、今の「職場」は葬式された会員さん、相談者さん、仕事関連の人達までは友人ではありませんけど、支援活動は阿吽あうんの呼吸や互いを思いやれる関係で無ければ上手く行きませんから、千明の存在は同僚でもあり家族同様の友人と称して良いでしょう。

「家族(家庭)」は職場とは真逆で癒しや休息を求める場、それを実現させてくれるのが、家族との時間が過ごせなくても、元旦から呼ばれても、夜中に呼ばれても支えてくれる嫁さんと家族の存在ですから、家族の為にも頑張ろうと思わせてくれる家族も広い意味で友人と言えるでしょう。

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