病死・事故死・自死、孤独死など3千人以上の終幕を支援をしてきましたが、終幕を迎えた故人が死後何処にいるのか、どんな心境なのか、或いは無に還るのか何ひとつとして分かりません。
家族から聞かされた生前の思いを終幕後も引きずっているのか、病気や不自由さや辛さから解放されたのかすら分かないのに、宗教毎に終幕後の捉え方が違うから尚更分からなくなります。
死に顔を見て「苦しそうだ」「眠ってるようだ」「父親の時は苦しそうだった」「母親の時は顔が黒ずんでた」など様々な反応をする家族、だから死体である事を強調するゴムバンドやタオルで口を閉じずに『穏やかな顔にするスキルと道具を探す』この発想こそが当葬儀支援の礎となってる気がする。
死後を正確に語れる人はいない
死後の真相を正確に語れる人がいるはずが無い――、無信仰者であれば誰でも気付くはず、勿論、自身の信仰を信じる人はそれで構わないし、信仰心のある故人や家族の葬式は当方理念から外れない限り尊重します。
しかし信仰のある人達に問うが、自分の信仰以外どんなに力説されても信じないでしょ!? 無信仰者への力説や勧誘も同様の行為と気づくべきであり、うっとおしい存在以外の何者でもない。
「仏教は仏になり輪廻転生、或いは「土」に還るか「無」に帰す」「神道は家の守り神になる」「クリスチャンは信者だけが復活する」無信仰者の僕からすると全て戯言にしか聞こえない。
宗教者や葬儀屋は「これが葬式」「これが供養」「これが死後」と『講談師見てきたような嘘をつき』そのもので『供養』の言葉を餌に暴利を貪ってるとしか思えないから、葬儀屋自身が信仰する信者だけを相手にすべきで、全宗教の相手ができるのは無信仰者だけだろう。
そもそも同じ環境で育った兄弟姉妹でさえ、思考、性格、価値観が違うのに、終幕後は生前の生き様、価値観、思想思考に関係なく死後は全員同じ!? そんな論法には無理がある――、
葬儀支援の根底は死者でなく生きてる人
かつて喪主をした人から自身の終幕後を託されてる数は100人を超えるが、どうして欲しいか尋ねると残す家族のへの心配と配偶者や子供達に負担を掛けたくない想いが強い、死者は何も話しませんが生前に聞いてるのだから、その不安や心配に応えるが最高の供養なのは間違いない。
残す家族への心配は『生活』『寂しさ』であって自分の葬式は「焼いて散骨、その費用は残しておきます」がダントツだから、家族に無理をさせない葬式を提案してるだけの事、少なくとも当方会員で読経が、戒名が、生花、賑やかにと言った人はいない。
そんな要望を何十人と聞かされてきたのですから、豪華で高額で読経と戒名は、、などの発想になれるはずがなく、その発想ができるのは本音や想いを膝を突き合わせて話した経験が無いからだろう。
家族が故人の希望を叶えてあげればいい
終幕直前の希望を聞いてる会員は極少数に過ぎませんから、事前相談で話した内容のメモを家族に伝える事から終幕後は始まるの事前相談はとても大事、入会時の顔写真を撮影して会員証の控えに貼ってありますが、別人のように老けてる人が多く入会時の顔は家族に見せられる。
「これが夫婦で入会に来た時の写真だよ」と希望内容を伝えるからか、殆どが希望通りにしてくださいとなるので、葬式の打合せは5分もあれば充分、あとは故人が心配してた事を1つひとつアドバイスするが、この部分は2時間くらい掛かる家族が多く、無償だからか本音を言えば面倒でしかない。
でも故人が心配してるだろう大半のアドバイスが終わると『これで良いかい?』と心の中で故人に確認してる自分がいて、生前の顔も声も知ってるからか何となく笑顔の故人の顔が思い浮かぶと納得する。
大半の家族は葬式後も再入会するから、死後手続きで何度も来館される家族も珍しくなく、分からない事は、あんしんサポートに聞けば分る――、的な安心感も故人への供養だと思っている。
ただねぇ、好感が持てない人と理念に反する依頼を受ける気はない。だもん人助けと言われるとこそばゆい、自分でも70才のジジイが大人気ないとは思うけ本心を誤魔化して支援する気はない。
葬儀屋では真似の出来ない「嘘」と「誤魔化し」の無い支援内容となる高品質・超低料金設定を貫き通してるのは、誰でも引き受けない――、が心の何処かに後ろめたさがあるから? かもしれません。
何をしても手抜きが出来ない性格ってゆーか、手抜きの仕方が分らないので葬式最後の火葬が終わり、事務所に戻って椅子に座るとドッと疲れが出てコックリ、コックリする事も多い、極力ストレスを溜めず、誰かに洗脳されることなく、自分の中に湧き出る思いで支援を続けたいと思う。
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