今回はミスや失敗話しでなく当時を思い出しながらブログを書いてたら、葬儀支援を始めた数年間は手弁当で報酬はありませんでしたから、施行後ラーメンを自分達への褒美として食べてたのを思い出しました。
誰が見ても利益は無いと分る低価格の葬式を目指すと公言したのは、忌み嫌ってた葬儀屋ではないと強調する為でしかなく葬儀支援がしたい訳ではありませんでした。ただ美容業の経営者が葬儀支援を謳う大義名分は必要と老人と話したり10年後、20年後を想定すると強ち間違ってない公言内容だと分ってきました。
葬式した家族が語るのは感謝や建前の言葉だけど、本音を聞くと「葬儀屋・菩提寺批判」が大半で諸問題も見え最大壁は『葬式慣例の洗脳』による周囲からの圧力と分かりました。
残る家族の生活は無視され故人の供養は当然と言う葬儀屋、菩提寺、故人の兄弟姉妹を中心とした親戚の無責任発言が最大のネックになっていると気付いたが、葬式の流れを変えられる影響力はありませんから、諸問題と未来予想図を公言しつつ一石を投じる事で波紋が広がればと考えました。
直葬も当たり前の葬式形態
当時は直葬は葬式ではない、直葬は間違ってるまで言われた時代でしたが、僕自身は無信仰者ですから宗教儀式に意味はなく火葬だけの葬式は当然、更に日本国民の7割近くは無信仰者で宗教儀式は信仰でなく慣習でしているに過ぎない人のほうが多いことも分かりました。
そこで目指したのは「直葬も当たり前の葬式形態である」と世間が認知すれば、余裕の無い家族の選択肢が創れると、国民健康保険から支給される葬祭費5万円で骨壺に納まれるのが理想と考えたわけです。
ようは葬儀屋と思われたくないからのNPO法人であり、葬儀支援センターであり、5万円で骨壺に納まれるプランは葬儀屋ではできないでしょ!? と間接的に訴えたわけです。
結局は自分で自分の首を絞める事になり、期待してた助成金類は一切なく、全て自分達の努力で実現させるしか無かった事が『ならどうすれば可能か!?』と考え『赤字補填できる事業を創り出せば良い』の発想から『絶対に増える散骨場の自社所有』となったのです。
設立後は手弁当で無報酬が数年続きましたから、葬式が終わった日だけは、自分達への褒美として幸楽苑で290円ラーメン1杯づつと、Cセット(半チャーハン+餃子1人前)を半分づつ食べました。当時を思い出すと涙がでますから強気な発言でしたが内心無理をしてたのかもしれません。
失敗した話しと言えるかもしれません
失敗話しでは無いと書き始めましたが、書き終わってみると意地と拘り発言の時点は選択ミスにも思え、食えない段階で撤退すれば失敗ですが、数年間食え無くても踏ん張れた事で食えるようになったのですから、失敗した話しのようでもあり、諦めなければ成功(食える事業)に繋がる話しにも思えます。
とはいえ、どんな内容の事業でも諦めなければ成功すると思えませんから、その辺りも後で掘り下げてみたいと思います。記憶を辿り文字に起こすと見えてくるものがあるのかもしれません。
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