宗教者より宗教者らしいと言われる、あんしんサポート

日々の「我想う」
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前回、盆法要について書いて思い出しましたが「武井さんは無信仰だから宗教的なものは嫌いですよね?」と勘違いされてる方がたまにおられます。前回の文章を見ても、或いは仏教でも、キリスト教でも、神道でも宗教的な思想を否定することありません。どんな宗教でも教えが違うと思ったことはありませんし、話しの中で例えに使わせて貰うことさえあるし、人として、社会人として、葬儀支援代表として、我が生き様の指針になる教えはたくさんあります。生きる上での指針として信仰を持つのは、自信の無い人、他人の影響を受けやすい人にとって良い事とさえ思います。

僕が否定するのは宗教でなく、そこに携わる『人の資質』と『金銭感覚』です。具体的に書くと『高額過ぎる布施や謝礼の金額』と『宗教者とは思えない表裏の実態』への苦言です。

坊さんも寺を離れたら1人の人間――、こんな事を言う時点で宗教者として生きては成らん人です。パチンコ屋にいって何万円もつぎ込む人、マスクしても頭を見れば分かります。女性のいるクラブを飲み歩く人、毎年新車に乗り換える人、こんな人は宗教者ではなく、宗教を商売としてる人ですから、宗旨宗派を、おとしめるのは確実、本当なら本山から苦言、懲戒を受けても不思議では無い人達だと思う。

物を販売する訳でもなく、病気を治す訳でもなく、知識を教える訳でもない。そこにあるのは分かり易く言えばイメージなのですから、そのイメージに対して金を支払う、宗教ほどデリケートなものは無いでしょう。だから宗教家、僧侶としてのイメージはとても大切なはずなんです。ところが実態は『布施は上がり続けるんだよ(実話)』と言った地域をまとめる僧侶、自宅と寺を渡り廊下で繋ぎ、更に自宅の改修費用まで檀家に寄付させようとする住職、法律に問題がなくても人間性は大問題だと気づかない、こんなレベルの人が人前で偉そうな法話など、臍で茶を沸かすレベルです。

武井という人間は、決して人様から褒められるように生き方もしてきませんでしたし、人間としても特別なものを持ってる訳でもなく、極々普通の何処にでもいる凡人でしかありませんが、そんな僕を頼って来てくれた人達に話す言葉は一貫しています。

》あの世に金はない、だから供養にお金は一切掛からない
》その点は葬式も同じこと、供養したいなら故人が心配しそうな事はするな
》残った婆さんの事や生活が心配の種じゃねぇのか? なら葬式は無理するな、それが供養だよ

この言葉を単なるお題目とするか、実践し続けるかの違いは雲泥の差です

この話しを否定する会員は居ないはずですが、実はもうひとつ、以前ブログに書いたことで会員さんに言ってない事があります。設立から数年後、お婆さんが入会相談に来られましたが、亡くなったお爺さんは大工の職人さんで基礎年金しかありませんでした。当然、遺族年金もなく基礎年金だけで生活されてると聞き「大変だよねぇ、分るよ」と言った自分の言葉に違和感を感じたのです。

お婆さんが帰ってから、違和感の原因を考えると自分の中にある『偽善!?』という感覚だと分りました。当時の僕は別会社の社長も兼任しており、そのお婆ちゃんの年収は、僕の月収よりも少ないわけで、そんな奴が言った「大変だよねぇ、分るよ」の言葉に対し『分るはずがねぇ!』と自分が嫌になった事で、その会社を半年かけて閉鎖、事業は社員に無償提供、一切の収入が無くなってようやく、お婆さんと同じ目線に立つ事ができたわけです。この流れは、うちの千明も知ってる事実です。

支援には2種類あります。
① 自分の財産で支援事業や団体を創ったり資金援助する間接支援
② 自分の身体を使って行う直接支援

あんしんサポート葬儀支援センターは『②』の直接支援、僕自身が直接動きますから、信頼に足る人物は思わなければ心を開いてくれません。だから葬儀支援の道を歩き続けるなら、同じ目線に立たなければ、葬儀支援の持続はできないとの判断です。

その後は、新車も買えなくなったし、暫くは家の雨漏りも直せないし、まともな給料も貰えませんでしたけど、相談に来てくれる人達に堂々と話せるようになったし、出来ない事は出来ないと言えたし、嫌な人は嫌だと言えるようにもなりました。あれから10年余りが過ぎて、今年購入した車は中古車で乗り出し98,000円税込、走行距離9万km超えですが、雨風は防げるし、乗り始めに少し音がするけど普通に走るから全く問題ないし安く買えて喜んでます。

先日もブログ『My way』で書いたように、とっても幸せな人生の選択をしたと実感しています。

金銭面目的でない『支援事業』の選択は人から強要されたものでなく、自分で決めた目的ですから、その目的達成と持続のリスクは受け入れて当然です。だから今の生活に幸福感が得られるのでしょう。人生は『金が全て』だと思ってる人、違う価値観の人から見れば、何処が幸せなんだ!?と言われそうですけど、僕の感じる幸せを具体的に言えば

『毎日を元気な笑顔で過ごせて、誰かに必要とされ、生き甲斐があって、出来れば生涯現役で過ごせる心身の健康がある』

ですから、お金では買えない部分のほうが多い、だから『葬儀支援の道』は『天職』だと感じるのでしょう。これは自分の予想にも反してるけど、思っていたより金に執着も頓着もないようです。

その意味では、僕より強い使命感を持つべきは宗教者だし、それが当然と思われるのも宗教者です。宗教者も寺を離れたら一人の人間、この理屈は分らない訳ではないけど通用しません。なら、それが通用する職業に転職すべきです。

警察官、弁護士、検察官、医師、教員達が、仕事を離れたら一人の人間ですからと言ったら納得しますか? 仕事の時と個人の時は全く別と理解できますか? 一般人なら誰も騒がない事でも、これらの人なら新聞記事になるのは、世間が特別な職業と思っているからです。宗教者は24時間宗教者なんです。その代わりに日々24時間、自分が行う法話のような人生を生き続ければ、他人様が自分に手を合わせる事もあるし崇められるようにもなるんです。 そんな事も分らない人が宗教者を名乗ることへの苦言です。

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