今回49才の母親の逝去で46才で亡くなった姉を思い出しました。
余命2ヶ月の宣告に対し母親と妹から「本人には伝えない」との連絡があり、深く考えず黙って従いましたが葬式の時にはすでに後悔の念が湧いてた自分がいましたから、親の立場にあり若くして逝く人が身近に出た場合「告知する」「告知しない」の判断はじっくり検討した上で決められるべきです。
初めて見舞いに行った時はいつも通りの容姿と言動でしたが、翌月には痩せて人相が変わり、翌々月には自分の死を悟った発言でしたから『治る』と思ってはおらず、少なくとも1か月は死と向き合って過ごしたはずで「あーもしたかった」「こーもしたかった」と思ってたかもしれません。
告知しなかった理由を考えると、母親と妹が精神的に楽だからに過ぎず、僕自身も安直な判断に乗ったに過ぎず姉本人の気持ちを優先したとは思えないのです。
当時は葬式とは無縁の世界で生きており人の死について考えた事もなく知識もありませんでしたが、余命2ヶ月、実際は3か月でしたが、この段階まで来れば例え「外出したい」「あれが食べたい」と言っても主治医は駄目とは言いません。
元気に動けた3か月前に余命宣告を伝えたら、狼狽えるだろうし、泣き叫ぶかもしれませんけど落ち着いてくれたら最後の限られた時間を病室のベッドだけでなく色々な事が出来たかもしれません。
『子供達と一緒に好きな時間を過ごせた』
『逢いたい人達とお茶をしながらの時間も過ごせた』
『行きたい場所があれば連れて行くこともできた』
そして『短期間だけど出来る事はした』という我々サイドの自己満足にも繋がり、取り返しのつかない後悔の念を持ち続けることも無かったような気がします。
「本人は元気になって帰れると思ってるんだから伝えずにおこうよ」一見親切そうに聞こえますが、結果は1か月以上も死を覚悟しながらも容姿も変わり、身体も思ったように動かなくなれば、何も出来ずただ静かに終幕を待つしか無い時間を生きたのですから安直な判断はとても残酷かもしれません。
家族親族の葬式は10回以上と普通より多く経験しており姉の死だけでなく、家族目線と業者や宗教者目線の違いを肌で経験した事が『今の葬儀支援理念になっているのでしょう』
自分の死後を予約しに来られる人も沢山おられますが建前で話すことはありません。本音を聞き対象者自身が最も不安に思ったり心配してる事を本音でアドバイスするのが僕の仕事、対象者自身の想いを直接聞いて家族目線からのアドバイスをする数少ない存在だと思います。
また僕自身が「死」を現実のものとして感じられる年代である事も相談者にとって大きな安心感になったり、本音が言い易いのもあるでしょう。
故人の生前や事情を知らない葬儀社、家族より信仰儀式を押し付ける宗教者は結局は自分達の利益優先か自己満足でしかなく家族目線とはかけ離れたもの、対象者や家族に寄り添ったアドバイスが唯一できる存在かもしれないとさえ思います。
利益を無視した赤字プランを設定し続け、儲からず、肉体的にも大変なのに何でここまでするんだろうと自分で思うことも時々ありますが多分こんな感覚だろうと思う。
逝去前の手術や入院で「お金がない」余裕がない中での葬式は普通にあり得ます。でも「金が無い」とは言い難いのが大半の人の心境のようですから、事前相談の段階から気取らず、恰好を付けず本音で話し合える関係を作る対応はとっても大事です。
その為には我々が構えず、垣根を取り去るような本音で接しない限り初対面の人と打ち解ける事など到底できません。だから事前相談に2時間、3時間もの時間を掛けてるわけで最初は構えてた人達がいつの間にか素の笑顔で話すようになれば、もしもの時に余裕が無くても「代表、実は余裕が無くて・・・」と言ってくれるようになります。
あとは家族の事情と価値観に合せた葬式を組んで、費用の心配をせず葬式が出来れば最後まで温かく送れる葬式になるはず・・・そんな想いが赤字でも、疲れてても『この家族の為に最後まで頑張ろう』とする意欲になってるのでしょう。
家族を支えようとする思いは家族に伝わるからか家族も僕らの身体の心配してくれる方が多く、まだまだ頑張らねばの想いが毎月検査したり、健康や食事に気を付けることになってるのですから、家族に支えられてるのも事実、これもお互い様の世の中のひとつでしょう。
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