素直が良いとは限らない「なぜなぜ、どうして?」が自分を守る

日々の「我想う」
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子供の頃は大抵の人が「なんで?」「どうして?」と両親に質問攻めをする時期があったでしょう。知らない事、分らない事、疑問に思う事があれば理解や納得できるまで聞くのは当り前、だから人は知識が増えるわけです。大人だろうが、学者だろうが、知らないことは、知らないのですから、聞くという行為は生きる上でも大事なことです。

ところが大人になると、分らないのに分ったふりをしたり、知らないのに知ってるふりをする人達が増えるし「常識だ」「普通だ」「誰でも知ってる」なんて言われると、納得できなくても納得しちゃうのが日本人のようです。これって子供頃に「なんで」「とうして」って聞き続けると親から叱られたり、嫌がられたりした経験が大きく作用してるんじゃない!? その結果として、大人の顔色を伺うようになり、そのまま大人になる。周囲の大人からは高評価だろうけど、とても大切なものを無くした気がする。

この点に関して、僕は祖父母に育てられた事が幸いしてる気がします。祖父母だから孫には優しくて多少の事は受け入れてくれたのでしょう。小さい頃の記憶はありませんが、高校生の頃だったと思うけど「小さい頃のお前は、何処にいっても「なんで」「どうして」って聞くから、恥ずかしいし、可愛げの無い子だったよ」って笑いながら言われました。

いくつも話して貰いましたが、そのひとつが電線です。
5才くらいのこと、お婆ちゃんと凧揚げをしてると、凧が電線に引っ掛かっり、取れなくなったのを見て「なんで電線は上にあるの?」と言うと「電線は上にあるもんだよ」と答えると、ふーん――、と暫く考えてから「僕なら土の中に埋めちゃうけどなぁ」って言ったそうです。今はわざわざ土中に埋める作業をしてる訳で、子供の発想は概念もなく、常識もなく、凧が引っ掛からない為にはとしか考えないから出た発想だけに、時には的を得る場合もあるようです。

大なり小なり、子供なら誰でも持ってる「なぜなぜ、どうして」を忘れてしまうようですが、新たな発想にはとても大事――、ってゆーか、これが無いと新たなものは創り出せません。忘れてしまった人達は『なぜ』とも思わないですから、必然的に『どうして』は出てきません。葬儀、葬式の中にも沢山ありますから、そのいくつかを書き出してみます。あなたはどう感じますか!?

》葬式よりも、残る家族の生活のほうが絶対に大事、だから無理をしない葬式をすべき
・金の有る無しに関係なく地域の慣習だけで葬式を行い、後の生活に支障がでる現実

》故人と逢いたい――、逢うなら生きてる時じゃねぇの!?
・存命中に逢いにも来ず、死んで逢いたいは変だろ

》生きてる時は何もせず、死んで盛大な葬式と騒ぐ意味が分からん
・何かしてあげるなら、存命中、できれば元気なうちじゃねぇの!?

》信仰心も無いのに仏式の葬式をする意味が分からない
・無信仰者は『火葬だけの葬式だろ』お別れはしても宗教儀式は要らんでしょ?

4つの実例を挙げましたが、改めて読んでどう感じますか? 僕の意見が変ですか? それとも現在行われている慣習や常識が変ですか? まともな神経を持っていれば慣習が変だし、すでに常識とは言えない事ばかりと気づくはず、同様の例は挙げればまだまだあります。

全く違う例をひとつ、昔は真夏の猛暑が30℃くらいでしたから、タイマーで30分ほど扇風機の風で眠れば、朝まで寝られましたが、今は40℃近くにもなる時代ですから、昔感覚で電気代がもったい無い、夏は暑いんだ――、なんて言ってたら熱中症で死ぬ時代、死にたく無かったら冷房の効いてる部屋で眠ってください。昼間の電気代節約したいなら、ショッピングモールとか図書館でも行って時間を潰す時代です。

常識は時代とともに変化するし、地域の慣習も同様に変化するものです。どんな事を考えるにしても『常識』『習慣』『決まり』ではなく、「なぜなぜ、どうして?」と考える事を強くお勧めします。

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